アイデアフォライフIdeas for life

”ビジネス、人生に生きる情報メモ帳” 海外在住。会社経営。不動産・ビジネス・経済・哲学・心理学・脳科学・建築・地球環境・教育・歴史に興味あり。人生のメモ帳、戒め帳として綴っています。誤字脱字、中途半端な解説あり。

タグ:人生

人生うまく行かない時があるから、考える、考えるから行動できる、行動するから失敗する、失敗するから学ぶ、学ぶから、賢くなる、賢くなるから、向上する、向上するから人生上手くいく。人生はこの繰り返し。人間は進化するようにDNAが組み込まれている。とはいえ、瞑想や宗教や占い、ビジネス本や成功者の講演を聞いてもポルノと同じ、自己満足だけでは前進しない、立ち止まってよく考えたら、行動あるのみ。

大切なのはどちらかを選ぶのではなく、早く決断する事。失敗したとしてもその分早くやり直せるから。

攻めの気持ちがあると集中力が高まり、迷いが吹っ切れる

不安や迷いの原因は、感激、感動、感謝が足りない。

生きることは考えること。

出来るか、出来ないかの選択をしている間は迷い続ける。やるか、やらないかである。 

自分がやらなきゃいけないこともやらないで、何か自分らしい生き方があるんじゃないかと思うことが、迷い。

人生には二つの選択がある。状況を受け入れるか、状況を変えるための責任を受け入れる。

他人が作った道を失敗もなく進むより、自分の道を迷いながら進む。

20年後に失望するのは、やったことよりもやらなかったこと。

決断とは「決める」「断つ」「そして、「断つ」には2つある、一つは迷いを断つ、二つ目は退路を断つ。

迷う、ということは一種の欲望から来ているように思われる。ああもなりたい、こうもなりたい、こういう風に出世したい、という欲望から迷いが出てくる。それを捨てれば問題はなくなる。松下幸之助

たとえ迷いがあったとしても、こっちと言い切る強さがないといけない。天海祐希

壁というのは、できる人にしかやってこない。超えられる可能性がある人にしかやってこない。だから、壁があるときはチャンスだと思っている。イチロー

右か左かで迷ったら 前に進む。

ー二択で迷う時は、選択をしない、もしくは両方を選ぶ、もしくは両方のベネフィットのみを選択し新しい選択方法を作り出す。


迷わないために。

ー選択技を多く持たない。IT系の人の服、毎日グレーのシャツにジーンズは選択することによって
脳の前頭葉が疲弊するのを防ぐためであり、効率の良い生き方をするため。
人間の脳は複数のタスクを一度にこなすようにできていないため、常に一極集中しタスクを山積みしないようにする。

前のブログから我慢の正体は怠慢と勇気、使命は欲なしで社会に役立つ事ということが、なんとなーくわかったところで、いざ行動へ!!
行動に移せない私と貴方へ・・・やった後悔は忘却され、やらない後悔は増大します。ならばやるしかないですね・・・



◯後悔について

「やらないで後悔するよりも、やって後悔するほうがいい」
といった考え方がありますが、これは全くもってその通りだと思われます。
なぜなら、「やったことで生じる後悔」とは、出来事の記憶に由来するため、必ず時間と共に忘却されますが、「やらなかったとで生じる後悔」とは、自身の可能性に由来するため、現状が苦しければ苦しいほど、時間と共にその気持ちが増大する傾向にあるからです。



使命とは誰かのために命を使うこと。儲かりそう、認めてもらえる、自分の欲や他人の視点ではなく社会での役割。これなら損得なしで頑張れるものと、自信が属する社会での役割が一致した時に使命が見つかる。ついつい欲に目がくらむから、いつまでたっても使命が見つからないのです・・・


◯あなたの「使命」とは

「使命の見つけ方を教えてください」こうした質問を受ける機会がありました。使命とは何か ?
おそらくそれは、「これは、自分にしかできない」「これなら損得無しで頑張れる」こうしたものと、「自身が属する社会での役割」が一致したときに得られる感情(使命感)だと思うのです。
私達はいつだって「自分のやりたいこと」を探そうとしたならば、「これをやれば儲かりそう」「これをすれば認めて貰える」と、自身の欲や他所の視点に囚われてしまう傾向があります。
もちろん、それはそれで悪いこととは思いません。
しかし、もし一度きりの人生を本当に充実させたいのであれば、
自分の「命」を誰かのために「使う」、すなわち「使命」を持つことが大切であり、そのためには、日々、自分自身を高める努力を怠らず、そして「高めた自分が誰の役に立てるのか」について、社会を観察し続けることが求められるのです。 


我慢は現状への自惚れ 思考の怠慢、勇気がないだけ・・
痛い所を突かれた感じ、、 


◯我慢の心理学

「我慢が足らない」とよく人から叱られるのですが、どうしたらよいでしょうか ?
先日、こんな相談を受ける機会がありました。
我慢とは何か。
そして、なぜ人は人に我慢を強いるのか。
おそらくそれは、我慢とは精神的にも肉体的にも辛いながらも、それに見合うほどの価値や結果が伴わないからだと思うのです。
(結果、「我慢とは尊いものである」といった、どこか宗教的じみたカラーを帯びていき、布教のごとく伝播されていくのです。)
しかし、よくよく考えてみたならば、
我慢とは「我(現状の自分)への慢(うぬぼれ)」であり、
これは「思考の怠慢」とも呼べるのです。
もちろん我慢によって物事が好転することもあるでしょう。
しかし、それは単なる確率論であり、いわば「祈り」に近い作業なのです。
もしも、あなたの現状が苦しいのなら、
そして、そんな現状を変えたいのであるならば、
大切なことは現状に対する我慢ではなく、
新しい何かに挑戦する勇気なのです。



颯爽溌剌、陽気の発する処金石また通る。さっそうはつらつ、生き生き元気よく、精神を集中すればどんな困難にも打ち勝つ。

今日一日 怒らず 怖れず 悲しまず 正直 親切 愉快に 力と 勇気と信念を持って 自己の人生に対する責務を果たし 恒に平和と愛と失わざる 立派な人間として生きる 積極的精神。感謝と喜びを持って生きる

身に病ありといえど、心まで病ませるな。運命には非なるものありしもいえど、心まで病ますな。

言葉には波動がある。消極的意思表示を出さず、明るく朗らかで、生き生きとして勇ましい感じを自分も感じ、人も感じるような言葉以外はしゃべらないようにする。

Habits become second Nature 習慣は第2の天性。常に善良な言葉、勇気ある言葉、お互いの気持ちを傷付けない言葉、お互いに喜びをよく与える言葉を使う。

どんなに食養生しても精神が安定しなければ、肝臓外の糖原質の分解と言う自家現象で糖尿病は治らない。インシュリン注射は金とりながら患者を毒殺してるようなもの。神経反射の調節で感情や感覚からくる心の再反射作用によって生命に損害

血液がアルカリ性であれば人間は病にかからない。血液が酸毒性アジドージスになるてあ病にかかる。つまり心が消極的になると血液酸毒性、積極的になるとアルカリ性になる。

神経反射の調節方。感情や感覚の衝動を受けたら、肛門をしめる、お腹に力を込め、肩を落とす。心には感じても神経系統への影響を減ずる効果。 

呼吸。深呼吸は出すだけ。肺臓の中の悪ガスを出す事が大事。肛門を締め、肩を落とし、腹は考えず、息を出すだけ出す。出切った所で、改めて肛門を締め、肩を落とし、息を吸い込む。いっぱい吸い込んだらお腹に力を入れて、ハーッと出す

鏡に向かって自己暗示を与えると、自己暗示を妨げるコンプレックスは生じない。毎晩、寝がけに鏡に映る顔を見て、「お前は信念が強くなる」と言って寝る

無邪気な気持ちになれ。「まぁ、良いことだけ絶え間なく絵にかけよ、心に」 心に思ったり考えたことを、心のスクリーンに想像力を応用して描くと、それが期せずして強固な信念となる。信念となるとそれが具体化するのが必然の神秘

思考は人生をつくる。心はその人をつくりもし、壊しもする。人生はまこと心ひとつのおきどころ

心と身体は道具。我は「気」霊魂と言う一つの気体。 「学んでいよいよ苦しみ、極めていよいよ迷う」孔子

人生は言葉で哲学化され、科学化される。観念が言葉を創る。言葉には暗示力があるから、積極的人生を志す者は、消極的な言葉は戯れにも口にしてはならない。

凡人は敵対し、優れし人は「和合」する。喧嘩するより、仲良くすることをまず考える。 たとえ勇気と信念をもって時物にあたっても、不完全な成果しか得られない場合がある。それは「調和」を無視した結果である 。

不完全の中に調和はありえない。 宇宙を含めて、この世は全てもちつもたれつで成り立っている事を忘れるな。 反省は、その人が自己の心を、その人の本当の心に照らして熟考するもので、他人から言われてするものではない。 優れた人は自己を責めて、人を責めない。

約束を破ることは罪あれど、他人との約束を破るより、自分のへの約束を破ることくらい、大きな罪悪はない。なぜならば、自分自身への約束は天と約束したことになるから・・・・

「箱根山、駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人よ」偉くなっても一人では生きていけない。人あっての自分、自分あっての人だということが理解できれば、それを良心が応援し、報酬を超越した責務感となり、それが当然の帰結として真心となって発露する

真心は、超特的な積極性の心意。その行為に真心が伴っていれば、絶対的な強さが加わりその生活行為において疲労感を感じることもなくなる。そうなれば、期せずして毎日が常に明るくはつらくとしてくる。

己の心的状態で他人の気持ちや心の状態を推し量ってはならない。自分に厳しく、他人に優しく。寛容さを失うと、どうしてわからないの、どうしてあいつはこうなのか、負けまい、勝ってやろう、という気持ちが現れ、積極心を失う。「気に入らぬ、風もあろうに、柳かな」寛容さを失わない人生理念。

人間の行為に、真心を込めてなされたのと、そうでない場合は、その結果がどうであれ、その行為の「尊さ」には格段の違いがある。真理は万事に通貫する。 真心という心の中には、期待というものがないから当然、期待外れとか失望というものがないのである。

真の平和とはお互い克己し、お互い自制し、お互いに相譲り、相敬い、相愛し、相助け合う、完全調和の美しい気持ちが、家庭組織の各個々人にもたれていることが、何より先決。家庭の平和確立なしに、世界の平和はなされない。

信仰から何か代償を得ようとすること。すなわち、神なり仏を信仰してもっとより良い幸福や恵みを受けたいという種類の信仰、これは素直にいえば、決して正信ではなく、強いて言えば疑信である。  先祖の霊は敬うけどね。God lives within me as me

小さな事こそ、真心を込める。 「相手に気に入られよう」とか、「好感をもたせよう」と言った気持ちからではなく、何も求めない純粋な心でそれが行われる時、その行為からは形容しがたい暖かいものを感じることがある。それがすなわち、真心というもののもつ尊さを感じるときである。

人間というものは、人間自身の心の中の思わせ方、考えさせ方が、自分の生命を強くも、弱くもするもの。 人生はどこまでも生かされる人生であっちゃいけない、生きる人生でなきゃいけない。

自分は一人で他に代わりがない。さらに人生は1回のもので、二度も三度も生れたり生まれ変わることは出来ない。人間は一度死んだら二度とこの世に生まれて来ないと知ったら、もう少し命を真剣に大切にしたらどうであろう。そして真剣に命を大切にしようと思うなら、今この生命を力強く生かさなければ嘘


「健康や運命に関係なく、いつも元気でいられるのが人間である。」一向に良くならないなどと思うのは、既に元気が引っ込んだことになる。「治る時が来れば治る」と考えることが大切で、かつ、また本当の元気のある精神状態なのである。

同情のし過ぎに注意せよ。健康を害している人や、悲運の人に接する際は、鼓舞、奨励以外の言葉は口にしないように注意すること。同情は美徳だが、相手の気持ちに引き込まれ消極的になってはいけない・・・

「健全な肉体に健全な精神宿る」という言葉がある。真理でないとはいわぬが、決して絶対的真理ではない。「健全が精神が健全な肉体を作る」のである。

印度の聖者の教え「いたずらに理性的智力のみをたのみとして生きている人間は、何の事はないあたかも大像の如きもの、大象はいかにも力もあり強くもあるが、憐れその力や強さあるばかりに 小さな人間の子供にまで自由を使いまわされ、その上少しの物音にも驚いて飛び上がり右往左往する」v感情的智力

理解できていないことならいざ知らず、かりにも理解していることを実行できない、しない人は、どんなにうまく弁解したとしても、結局は実行しようという意欲が徹底していないという理由に帰結する。なぜそうなのかというと、自己完成への情熱がそれほど強くないからである。

魚が水の中で生きて居ながら、水の存在に気づかないのと同様に、人間は真理の中にいながら、心理をなかなか自覚することができない。真理とは唯一無二の絶対的な物 過去現在未来に至るまで、何ら変化しないものであるから、倫理は真理ではない。戦前、戦後における男女の人権意識しかり、国家間の戦争での殺人に対する認識と平時の殺人に対する罪の認識しかり、、。ゆえに人間はいかなる場合でも、善悪を判断する際には相対的な倫理を本位とするのではなく、永却不変えいきゃくEternalで絶対的な真理を本位とすべき。
 
光陰矢の如し。今日やらなくても明日があるさと言うな。今年やらなくても来年があるさと言うな。月日というものは、たちまち去って二度と戻ってこない。あきずに行うことが人間の本当の道。

科学教育の副作用。先ず疑うことから始めようとする、そして証拠がないと認めない。科学は万能ではない。わからない事柄だけの人生の中に生きている 理知教養のある人程、科学は万能ではなく、世の中はむしろ分からないことの方が多いという事実を忘れてはいけない。無邪気、無条件に、観念的にそうだと認定する、つまり思いこむ事もときには大事。

生活の味わいとか情味というものは、楽しい事柄の中にもあり、金や物質の豊かさにのみあるものでもない。悲しいことの中にもあり、そこには人間界の階級や差別になんら関係はない。いや、むしろ富貴や地位に生きる者は、生活の情味を物質的なところから得ようとするために真の味わいを味わいがたくし、したがって真の幸福というものを味わいつくすことがかえって容易ではない。だから真理を厳粛に考察し、出来る限り広く深く、生活の中に情味や味わいを見出すことに務めよう。

張り合おうとか、対抗しようとか、打ち負かそうとか、負けまいといったような、そういう気持ちでない、もう一段高いところにある気持ち、境地。これが絶対的な積極。どんな病や災いに見舞われようとも、心がそれらを相手として関わらない、勝とうとも負けようとも思わず、超然と落ち着いていられるようになって初めて理想とする積極心(平安を確保した心の状態)、つまり絶対的な強さをもつ、折れない心となりえる。 

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